あの頃の記憶 ―私の原点― 次へ 一覧 ホームへ
一九四五年の八月、私は甲府の連隊にいた。広島の原爆も、長崎の原爆も知らなかった。やせっぽちの中隊長が、新型爆弾が投下されたと言うのを、少しの現実感もなく、何か遠いところの話のように、ぼんやりと聞いただけである。
私は十八歳で二等兵だった。七月の二十何日かに入隊したばかりだった。無我夢中で、苛酷な軍隊生活を送っていた。
私の家は五月二十五日(二十四日)の空襲で焼かれていた。しかし、私は当時、江古田の高校の寮で暮らしていたので、直接、空襲にあうことはなかった。私の母や弟たちも九州に疎開していたし、父も会社を休んで家族の疎開先に行っていたから、そのとき家にいたのは留守番のようにして間借りしていた人だけだった。
三月十日の大空襲まで、私はどんなに空襲がひどくなっても東京を離れまいと思っていた。東京が滅亡するなら、その滅亡を我が目で見ておきたいと思っていた。しかし、現実に大空襲があり、その犠牲者たちを目撃したとき、私の心は一変した。
その頃、私は学校は休み、毎日、上野の図書館に通っていた。学校といっても、勤労動員で通年動員されていたのだから、動員をサボっていたということになる。当時、私は手足の関節が痛み、医者から診断書をもらって動員をまぬがれていたのである。
それは空襲の翌日だったか、翌々日だったか、上野で顔がすすけ、疲れきって、僅かな荷物を持って右往左往している人々を目撃したとき、私は駄目だと思った。いつかは私たちの家も焼かれる。そして避難しなければならなくなるのだ。そのときは鉄道が破壊されて、東京を出ることも出来なくなっているかも知れない。
突然、私は脱出主義者にかわり、家族を説得した。それも、一日もはやく逃げ出されなければ身動きできなくなると主張した。今晩つぎの空襲があるかも知れない。そのときはもうおそいのだ。早く、早く、一刻も早く………。昨日まで滅亡する東京と運命をともにしようなどと悲壮なロマン主義詩人ぶりを発揮していたのに、いまはにわかに、ひたすら逃亡を思う現実主義者に変ってしまった。その豹変ぶりは滑稽だが、そのときは真剣だったのだ。
荷物だとか、手続きだとか、いろいろ準備があるという母に、それでは自分だけでも先に行くと言って、弟と二人で先に出発してしまったのは、三月の十二三日のことだったろう。博多までの直通になど到底乗れはしない。どこ行きでもいい、一刻もはやく、すこしでも遠くまで逃げ延びておかなければならない。私と弟は行き当たりばったりに、西のほうへ向う列車に乗り込んで、乗り継ぎ、乗り継ぎして、遠い道のりを逃げて行った。
ちゃんと計画をたてて、着実にあるくということが私には出来ない。そのとき限りで明日はどうなるかわからないという気持ちがいつも私を支配している。それはこんな戦時下の体験のせいかも知れない。当時、そんなふうに思ったのも、その頃は、いつ空襲があるか分らなかったし、空襲があれば、列車は途中で停まってしまって、計画どおりになど運転されはしなかったのだ。
そもそも、私の命そのものが、いつまでつづくか分らなかった。やがて死ぬ。それだけは確かだった。しかし、どこで、どのように死ぬかは分っていなかった。梅崎春生の「桜島」の主人公は「美しく死にたい」と思っていたというが、私にはそんなロマンテイックな願
いはなかった。ただ、いつかは死ぬ。その時まで私は生きて、考え、感じ、それを日記に書いておこうとだけ思っていた。
当時の私にはすべてが空しかったのだ。やがて私は死ななければならないが、それは私だけの運命ではなくて、すべては滅びるのだという思いがあった。時として死を思うこともあった。しかし、その私を生きさせたのは、草むらで鳴く虫の声だった。彼らもやがて死ぬ。しかし、死ぬまで鳴いている。誰かに聞かせようというのでもなく、ただ、鳴いている。その生涯に意味があるか。しかし、何に意味があるというのか。すべては滅び、すべては空しいではないか。しかし、虫は鳴く。ひたすら鳴く。私はその虫に感動した。それが命だと思った。私は自分の命を生きようと思った。
私が勤労動員をサボったのは、決して特別な意味があったのではない。私は戦時下に育った人間として、狭い世界に住んでいた。マルクスも知らず、小林多喜二も知らなかった。中学生の頃は藤村を読み、独歩を読み、藤村に導かれて透谷、西行、芭蕉に憧れた。中学時代は受験で本を読むことも困難だったので、高等学校に行ったら本を読もうと思っていた。
上野の図書館には高校一年の頃からよく行った。学校には一学期は通ったと思う。マントを着て、破れた帽子をかぶり、手ぬぐいを腰に下げ、朴歯の下駄をはいて、いわばバンカラな高校生スタイルで通った。武蔵はお坊ちゃん学校で、そんな風体の学生は少なかったが、学校も何もいわず、取り締まりにあうということもなかった。
当時はいうまでもなく国民服の時代で、学校によってはゲートルを巻いて登校することが強要されたといわれているが、私の記憶では、武蔵ではそういうことはなかった。私はバンカラスタイルで図書館通いもしたが、誰にも咎められなかった。ただ、図書館では下駄は地下の下足にまわり、草履に履きかえさせられたと思う。
当時は図書館に来る人はほとんどいなかった。毎日、私は一人の老人と一緒になった。彼は小さな柳行李のようなものにつめた弁当を持って来ていた。そして、警戒警報が出ると、館員に案内されて館外の防空壕に入った。この防空壕の入り口まで出て、青い空で銀色の
玩具のような飛行機が空中戦をしているを見た記憶がある。多分、昭和十九年十一月二十四日の空襲だったのだと思う。
工場を休んで図書館通いをしていた私は何かを体系的に学ぼうとしていたわけではなく、雑然と読み漁っていたのだったと思う。当時何を読んだのかまったく記憶がない。図書館のカードボックスを見ても、社会という項目はまったくからだった。多分、疎開して書庫はからになっていたのであったろう。あるいは思想関係の本は閲覧が禁止されていたのかも知れない。そして、当時の入館者は、もしかしたら私ともう一人の老人だけだったのではないかという気がする。
こうして、友人たちが工場に通っているあいだ、私は空虚な心で、空虚な図書館通いをしていた。ただ、死にいたる日々を空しく生きているだけだったと思う。そうしているところに、三月の大空襲があり、あわてて東京を逃げ出したという次第である。
私は九州の疎開先にも落ち着けず、やがて東京に帰って、学校の寮に入ったのだと思うが、寮に入っても、学校があるわけではなく、友人たちが工場に行ったあとは、寮でただぼんやりと日を過ごした。この頃は図書館にも通わなくなっていたと思う。私は次第に西行や芭蕉の世界にのめり込むようになっていた。そのうちに五月の空襲で家を焼かれ、罹災者として再び九州の疎開先に行ったのである。
しかし、もう一度東京に帰り、再び九州にもどって、そこで<七月二十日に甲府の連隊に入隊せよ>という電報を受取った。電報を受取ったのは入隊せよという二十日の夜だったから、別れを惜しむ間もなく出発しなければならなかった。私は何の感慨もなかったが、送り出す母はずいぶん辛かったと思う。当時は気にもかけなかったが、その時の母の気持ちは、いまになってようやく身にしみて思われるようになった。
こうして私は二等兵になり、悲惨な軍隊生活を送って八月十五日を迎えた。入隊後間もなく、誰かわからぬが、夜、洗濯をしている私の耳元で、<ソ連を通じて講和を申し込んでいるから、もうすぐ戦争は終る>という意味のことをささやいた者があり、その時からひたすら、戦争の終る日を待っていたから、天皇の放送を聞いても少しも驚かなかった。
私はただ、空虚な心で軍隊生活に耐え、空虚な心で八月十五日を迎えたのであった。
この一年あまりの経験は私にとって決定的な意味をもっているように思う。あえてとりとめもなく私事を書きつづったのは、<戦争の時代は軍国主義者で、戦後は共産主義者になった世代>ということがわけもなく信じられているようなので、それは必ずしも正しくない、私のような人間もいたのだということを、書きとめておきたかったのである。
このような空虚な心を抱いて、私は戦後の激動の時代を迎えた。私はさまざまな思いをして戦後の時代を生き、その後半世紀以上も生きて、いま、再び死を目前にひかえて、いつまでつづくか分らぬ日々を生きている。この私の心に、空虚な心を抱いて生きた青年の心がなつかしくよみがえる。私にはあの頃とすこしも変らぬ心で、いまの激しい時代を生きているのだという思いがある。
そして、漱石が死の年に「点頭録」を書いたことを、今さらのように、身にしみて思い返すのである。<また正月が来た。振り返ると過去が丸で夢のように見える。何時の間に斯う年令を取ったものか不思議な位である>< 近頃の私は時々ただの無として自分の過去を観ずる事がしばしばある>と述べて、はげしい言葉で世界大戦の現実を論じている。それは当時としてはもっともすぐれた<軍国主義>論であった。
それは漱石の<遺書>ともいうべき、もっとも大事な言葉だと思うが、いまは全集以外で読むことは困難になった。私は今の漱石ブームを信ずることが出来ない。
(2002年8月2日) (2002年 はまゆう)
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